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鎌倉ハム見方コメ100

ルネサンスとは一言で言うと、すべてを疑うこと」と述べている。

すべてを疑い、自分の目で見て、自分の頭で考えること。

これがルネサンスをもたらした。

sorry政治とは何か。

sorry政治に私たちはどう立ち向かうべきなのか。

その答えを私たちは、自分の目で見て、自分の頭で考えて導いているだろうか。

自分の目で見て、自分の頭で考える。

すべての主権者がこの行動様式に目覚めなければ、新しい時代を切り拓くことはできない。

暗黒の時代が続いてしまうのである。

現代社会において、私たちの判断にもっとも強い影響を与えているのは、マスメディアである。

「自分の考え」と思っていることは、本当に「自分の考え」なのか。

マスメディアによって刷り込まれた情報を、知らぬ間に、「自分の考え」だと思い込んでいないか。

このことに気付かなければならない。

トランプ大統領が米国のパリ協定離脱を表明した。

大半のマスメディアが狂ったようにトランプ攻撃を展開する。

このマスメディアによる「刷り込み」によって、多数の市民が、「パリ協定からの離脱を表明したトランプ大統領は間違っている」との判断を有しているが、その判断は、本当に、「自分の目で見て、自分の頭で判断した」ものなのか。

大半の人々の現実は、違う。

マスメディアによる「トランプ大統領の行動は間違っている」という「情報の刷り込み」をそのまま繰り返しているだけのものなのだ。

地球の表面温度が上昇傾向を示しているのは事実である。

この状況が続けば、さまざまな影響が生じるのも事実である。

プラス面もあればマイナス面もある。

しかし、地球の歴史上、表面温度の変化は大規模に繰り返されてきた。

もっとも深刻な影響が広がったのは、表面温度が低下した局面である。

「地球寒冷化」の方が全体としては深刻な影響をもたらしてきたと言える。

「パリ協定」は、近年に観察されている表面温度上昇の原因が化石燃料消費に伴うCO2発生量増加によるものと断定して、CO2の発生量削減を取り決めたものである。

しかし、表面温度の上昇が化石燃料消費増加に伴うCO2発生量増加によるものであるとは、実は断定できないのである。

「気候の複雑なシステムは根本的に予測が困難である」「人間活動が温暖化の支配的な原因かは明らかでない」とする、科学的な見解が広く表明されている。

いわゆる「地球温暖化仮説への懐疑論」は、科学的根拠をもって広く保持されているものなのである。

ところが、マスメディアは、「人間活動による地球温暖化仮説」に対する懐疑論に対して、説得力のある根拠を示さずに、頭ごなしにこれを批判する。

このような冷静さを欠いた姿勢に疑念を持つことが極めて重要なのである。

メディアを支配しているのは誰か。

この点に目を向けると、まったく違った視界が開けてくる。

私たちの「自分の判断」というものが、何者かによって、気付かぬうちに「誘導されている」可能性があるのだ。

私たちがいま身に付けなければならない最重要の行動は、「すべてを疑うこと」である。

 

鎌倉ハム見方コメ101

もう終わりにしましょう。前川さんと詩織さんを私たち国民が支持して守ってあげなくては。そう思います。

 

鎌倉ハム見方コメ102

クラス経営とは、多様性を無視すること

 学校における「クラス」の存在価値について、私は日ごろから疑問を持っています。クラスの中では、生徒ひとり一人の考え方や善意より、集団の利益の方が優先されるケースが多いからです。もちろん、集団としてまとまることにメリットはあると思いますが、結束を強くしすぎると何が起こるかということを、現役の先生方は一度考えた方がいいと思うのです。

 クラスがクラスとしてのまとまりを求めたとき、そこに必要となるのはおそらく共通の目標やルールです。体育祭のような行事を思い出していただけると、分かりやすいかもしれません。「優勝する」などの目標や「毎日クラスで朝練をする」といったルールを作り、達成に向けた働きを生徒ひとり一人にある程度強要しなければならないとなると、少数意見がかき消されて多様性が担保されない集団となるのです。具体的な例を挙げるのならば、40人中の一人か二人が「体育祭の朝練を毎日やる必要はないんじゃないか」と思っていて、その意見の方が妥当だったとしても、クラスでは聞き入れる余地がなくなりがち、ということです。

 行事のときでなくても、似たような感覚を覚える生徒は多いのではないでしょうか。「クラスの雰囲気を壊しちゃいけない」「こんなことを言ったら、仲間はずれにされる」というように。

 先生が熱心にクラスを扇動したり、スローガンなんて掲げてしまうと、余計に具合が悪い。そういう先生はその熱心さからたいてい「良い先生」と言われることが多いようですが、クラスの一体感を重視するあまり、集団意志に順応できずに苦しむ生徒を生み出す可能性が大いにあります。

改めて考える、「良いクラス」とは何か

 「良いクラス」というと、先生側から見ればそれは、団結力のあるクラス、まとまりのあるクラスということになるのかもしれません。しかし、そういうクラスほど多数派を中心に集団の意志が決定されていて、少数派が息苦しかったりするものです。ある意味とても民主主義的なのですが、やはり少数の意見が大事にされないというのは良くないと思うのです。

 本当に良いクラスというのは、多数派だろうが少数派だろうが関係なく、互いの意見に対し共感し、多様性を認められるクラスではないでしょうか。そうすれば「個」が尊重された上で、違う価値観を持つ「個」とコラボレーションする喜びを味わえる。協働をするための環境ができていて、自我を無理やり隠す必要がなくなるのが、理想形だと私は考えます。

 先生は、過剰に他者に対して迷惑をかける生徒の行為を取り締まりつつ、クラスの生徒全員が安心して自我を出せるような環境を作り出す。それこそが求められている役目であって、決してスローガンを掲げるのが先生の役目じゃないと思うのです。

「クラス経営」「学級経営」などという言葉がありますが、そもそもこの考え方が間違いなのです。学級経営とはスローガンをかかげて、そのスローガンに沿った集団に画一化していくこと。たとえば合唱コンクールのような行事があったときに、練習を通してみんながだんだんとクラスの仲間を思いやるようになって、トゲがなくなってまとまって一つの方向に進んでいく……そのようにナビゲートすることこそ学級経営だと言う人がいるのですが、そんな誘導はいりません。あくまで生徒ひとり一人が主体的になるべきなのです。

 結局、教師たちが学級経営を通じて生徒に何をさせようとしているのかといえば、「嫌なことでも我慢しろ」ということ。集団にあわせて自我を抑えろと教えているのです。まるで努力と我慢の宗教ではないですか。

 集団における努力や我慢というのは、世の中に出てから学んだって決して遅くないと私は考えます。ましてや学校のクラスのように偶然にでき上がってしまった集団においては、必要以上のまとまりはいらないと思います。

 集団でまとまることは世の中を生きていく上で大事だと、学校でそれを学ぶべきだと言う人もいますが、その過程で失われる個人の意見はどうなるんでしょうか? 学校教育で他者との協働が求められるようになったのは、他者と協働できる人材を求める社会全体の声に応じたからと言って良いのです。それにもかかわらず、生徒に対して「クラス」という集団の中で画一化されるよう促すとは、馬鹿馬鹿しい話だと思いませんか。

 

鎌倉ハム見方コメ103

さんは顔を晒そうが名前が出ようが、卑劣な犯罪者を許せなかったのでしょう。

これ以上被害者を増やさないためにも。